日本弁理士クラブの歩み
…日本弁理士クラブについて近頃考えること…
飯 田 伸 行
1.はじめに
日本弁理士クラブ(以下必要に応じて日弁と略す)については、これまでに機会もあって何度か書きました。取り分けて昨年度は、日本弁理士クラブのご推薦を受けて村木清司前会長のもと、他の3名の副会長と共に日本弁理士会執行部の一員としての記念すべき1年を過ごしたこともあり、通年にわたり私個人の生活にも様々な変化を与えました。正直を言えば、実のところまだ一部の点で私にとっては激甚だった副会長生活の後遺症(?)から完全に抜けきれず、何か大きな熱病の後のリハビリの日々といった実感を覚えます。
本稿執筆の趣旨は、河原正子会報委員長のご説明によりますと、過去に拙稿として掲載頂いた「日本弁理士クラブの歩み」の続編であり、又は、その後の事情変化の説明でもよいとのことなので、折角の機会と思い一筆することにしました。
2.日本弁理士クラブについて近頃思うこと
世紀の変わり目でもあり、改正弁理士法の成った
年でもある昨年は、現在のそして今後の全弁理士に
多大の変化をもたらした年でもあります。同時に又次の第2次法改正に向けた活動も新年度へと休み無く繰り広げられております。改正弁理士法による最大の変化は、改正結果としての諸事業展開であります。例えば、従来の会員研修(かなり広範多岐である)に加えて義務研修という時限事業が、資質向上の趣旨も含めて全会員に課されたこと、それが会員の日常の業務に影響を及ぼす可能性からも、これまでの研修に加えて各会員が、一度は自らの問題として対処しなければ成らないことなどです。
実際週末の2日間を完全に費やした自らの受講経験に照らせば、不正競争防止法、著作権法、契約仲裁の諸問題等を対象としたこの義務研修は、効果試験ともあいまち、久々の緊張感を受講生に与えたというのが感想です。このように今年度は、改正の結果を実効ある事業として実行する側面と、次の改正に向けて年度内に活動すべきことも多々あると言えます。
私の場合、文字通り日本弁理士会執行部の一員として多忙な初経験の日々でしたし、実質約半年間の時間制限の中での例規会則改正という至上命令がのしかかり(直接の担当ではなかったが)、文字通り夏休みもないような、まさに信じられない時間の連続でした。
話が少し飛びましたが、そんな中で日本弁理士会への有力な政策提案集団であり、日本弁理士会の理事会執行部の有力なサポート役でもある日弁の存在意義は、別の形で考えるのが手っ取り早いと思います。それは何かというと簡単なことですが、「もし日弁なかりせば」このたびの弁理士法改正がどういう展開をたどったかと言うことを想定すると早いでしょう。
「もし日弁なかりせば」、(特許庁を始め関係各省庁その他官民多くの方々のご努力は別としても)全弁理士会会員の多数において一定の時間内に一定の内容の制度案を成文化させ、具体化するにあたっては、会員のコンセンサス作りに更に多くの手間と時間がかかったのではないかと予想します。このような立場は、日弁と同様な立場に立つ他の二つの主要政策集団にも当てはまると言えましょう。
近頃は、情報通信手段もブロードバンドの技術展開のもとで大容量、急速、広範でありますから、或いは、会員のコンセンサスの集成も50年前に比べれば、相当改良されているとは言えます。
しかしながら、法律制度のような制度改定にあたり、やはり最後は、人間が決めることです。その点で日弁は、一定のいや一定以上の存在意義と使命を果たしつつあると言えましょう。勿論構成体の特質と成立経過にまつわる批判はありましょう。しかし、産業界ではクレームこそQCと拡販の契機と考える人々もおります。(たとえの適否は別としてもです。)ここでは、紙数の関係で抽象的な表現に止めますが、日弁は今後ともそのような期待に応えるべきでしょうし、又必ずや期待に応えて行くものと期待致します。
3.日弁の今後の課題
強いて日弁が今後念頭に置くべきものとしては、
変化の速度の著しく早まった今日の諸環境の中で、そうした変化に的確に対応しつつ、日弁がいかにその使命と目的を果たすべきかと言うことでしょう。
その過程で特に注意すべきことは、日弁が現在の日本弁理士会支持母体グループ群での指導的な立場にあるとの理解から、ともすると強引な運営をしたり又そう思われたりすることへの危惧です。更に、もう一点を言えば、電子通信手段の発達に伴う結果として人による会派活動への疑問提起と、いわゆる無党派層と呼ばれる個人への配慮です。
これは又、電子化世代の弁理士世界の広域年齢化と、弁理士業界、周辺業界、非弁行為との不分明化との関連で、会派活動疑義論へとつながりかねません。これも又、時代における一面の避け難い真実と言えます。しかし、「人はパンのみにて生くるものにあらず」かつ又、「人はコンピュータのみあれば食える」とするのは、早計でしょう。「人」は文字通り「人」であり、さまざまの意味で相互に支え合うところがあります。それが会派の持つ意味かと感じます。これは時代に関係ないことであると創立時の日弁関係者が証明してくれているようにも思えます。
別の言い方をすれば、会派などに属さない人々は、
時間的にも経済的にも、日弁等の会派に属する人々に比べて自由度が高いと言えます。ご都合主義で考えればそれも一理あり、余計な集団活動に時間を費やさなければ、それだけ日常の生活も快適かもしれません。しかし、これは長い目で見れば、必ずしもそうとは言えないと思われます。それは長期的な意味での受益者負担の原則ということです。どの社会でも応分の受益者負担のないところには問題が発生しやすいというのが私の認識です。日弁が、この種の問題に指導的団体として対処するとすれば、日弁内や他会派に止まらず、こうした無会派会員の問題にも目を向ける必要がありましょう。無会派会員の一部は、あるいは、潜在的な日弁会員かもしれません。(在る日弁の先輩の方は組織内3割活性説を唱えられましたが。)
実際のところ、日弁という巨大集団を牽引するには、日弁執行部の負担も又いろいろあるでしょう。
しかし、そうした問題点についても日弁なればこそ一定の配慮を加えるべきと言うのが、問題意識とはいえないでしょうか。
その意味では、50年間以上という一種の金属疲労にもなりそうな期間の経過との関係でも日弁は、今一つの岐路にあるとも言えそうです。知的財産権の世界は、今日極めて急速な展開と進展を繰り返しており、個別の会員の日常生活も多忙度を増しつつあります。反面で一日は24時間しかありません。
このような諸点を踏まえつつ今後も日弁が、より有効な活動を続け、真にその存在意義を有効裏に発揮するために一層の成果を上げられることを願って止みません。(平成13年7月31日記)
以 上